江藤勲の音楽夜話/第六夜

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

ベーシスト江藤勲が語る音楽のあれこれ

セッション・ミュージシャンとしてのスタート

前夜で語ったように、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが、一躍、スターダムにのぼりつめる前に、私はブルコメを離れていた。彼等が大活躍する様子をテレビで横目にしながら、私は自分の境遇が面白くなかった。まだ、セッション・ミュージシャンとしての仕事もそれほどにはなく、部屋で悶々と過ごす日が多かったからだ。そうした私を見かねて、「時間が余っているなら、運転免許でも取ってくれば」、とヘソクリを出してくれたのが母だった。昭和40年代初頭、マイカーが日本に定着しはじめて間もないころのことだ。

このあと、私がフリーランスのセッション・ミュージシャンとして生きてこられたのは、このときの母の助言があったればこそ、である。何故かといえば、当時、レコーディングスタジオに入るには、アンプもミュージシャンの持参だったからだ。スタジオに、まともに使えるアンプが備わっていなかったのだ。私が使っていたのは、ツイード・アンプのFender BASSMAN。のちのロックサウンドに多大な影響を与えるチューブ(真空管)アンプだ。

このアンプとギターを抱えて、電車やバスを乗り降りするのは、到底不可能だった。スタジオの行き帰りには、どうしてもクルマが必要になる。私が借金をして買ったのは、「てんとう虫」の愛称で呼ばれたスバル360だった。軽自動車でありながら、大人4人の座席を備えたこのクルマは、360ccの排気量ながら、実によく走ってくれた。どこのスタジオに行くにも、「てんとう虫」が大活躍した。レコーディングが深夜に及んでも、「マイカー」さえあれば問題ない。心おきなく、演奏に打ち込むことが出来た。

セッション・ミュージシャンとしてスタートを切った当初、所属したのが「津々美洋とオールスターズワゴン」だった。「エレキバンド」と呼ばれたバンドだが、GSブームが興隆するにつれ、歌謡曲にもGS調のアレンジが多く取り入れられ、ソロ歌手がいわゆる「独りGS」をやることが多くなる。そうした際のバックとして、オールスターズワゴンは、すぐに引く手あまたになった。特に私が加わった時期から、自分たちの楽曲よりも、歌謡曲のバックをつとめることが多くなった。

68(昭和43)年には、美空ひばりさんがステップを踏みながら唄った、『むらさきの夜明け』(原信夫/作曲)のレコーディングでベースを弾いた。このときのことは、思い出深い。大スター〝お嬢〟のレコーディングとあって、コロムビアのスタジオは、ひばりさんの入り前から、ただならない雰囲気だった。音楽とは直接関わりのない大勢の人が立会い、誰もが緊張していた。

しかしひとたび、彼女が唄いはじめると、すべてが変わった。ひばりさんの声が、一瞬にして、その場から、音楽以外の余計なものを取り去った。和物をしっとり唄いあげても、ビートをきかせたこの楽曲を唄っても、彼女のリズム感は、空前絶後。まさに女王にふさわしい、見事なグルーヴだった。バックのベースマンがそう断言するのだから、これは間違いがない。

そうそう、ひばりさんといえば、なんといっても古賀政男の名曲『悲しい酒』だが、実はこの伴奏は3タイプのメンバーで、伴奏のオケを録音するといわれ、そのひとグループに私も加わっていた。でもレコード化されたのがどのテイクか、聞かないままスタジオを離れてしまったので、詳細は不明だ。日本の歌謡史を代表する楽曲になるとは、あのときは知らなかったからなあ!