江藤勲の音楽夜話/第五夜

ベーシスト江藤勲が語る音楽のあれこれ

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

ハワイアンからロカビリー、そしてGSへ

ハワイアンブームと並んで、1950年代後半になると、ロカビリーがブームとなっていく。火付け役となったのは、「日劇ウエスタンカーニバル」だ。人気絶頂の「三人男」が、ミッキー・カーチス、平尾昌晃、山下敬二郎。その人気たるや、もの凄かった。舞台も、観客も、過激なまでに音楽に情熱をぶつけ、火花を散らした。海のむこうでは、E・プレスリーのロック&ロールが、ビートルズに飛び火していくように、日本ではロカビリーがGSにつながっていった。

のちに私も、日劇ウエスタンカーニバルの舞台に立つが、当時の演奏活動の中心は、「ジャズ喫茶」だった。なかでも最も多く演奏したのは、銀座にあった「テネシー」である。当時のジャズ喫茶の主だったものには、有楽町に「不二家ミュージック・サロン」、新宿には「ACB/アシベ」、歌舞伎町には「ラ・セーヌ」などがあった。ジャズ喫茶といっても、レコードを鑑賞するのではない。ステージライブのみである。また「ジャズ」と名前にはあるが、ジャズばかりを演奏するのでもない。ハワイアンもあればウエスタン、ロカビリーなど、ジャンルにこだわらず洋楽全般のバンドが出演した。

銀座テネシーでロカビリーを演奏していたころ、私が所属していたのが「克美しげるとロックメッセンジャーズ」だった。ヴォーカル克美の人気は高く、全国各地で演奏する日々が続いた。バンドマンとしての生活が、ようやく板についてきたのがこのころだった。しかし、不幸な事件がもとで、バンドは一夜にして終わった。途方に暮れていたときに、声をかけてくれたのが、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのリーダーでドラムの吉川氏と、ボーカルでフルート、サックス担当の井上大輔(当時、忠夫)氏。ありがたく仲間に加えていただいたのは、もちろんである。

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、通称「ブルコメ」は、それまでに私が所属してきたバンドとは、一線を画していた。メンバー全員が譜面を読み、アンサンブルや音楽的な意見を出し合うこともたびたびだった。そうしたバンドの才能を買われて、人気歌手のバックで演奏することも多かった。尾藤イサオ氏の唄った『悲しき願い』(アニマルズのカバー曲)のバックも、1965年当時のブルコメである。

ブルコメは、数年後に訪れるGSブームを牽引する代表的なバンドだが、私の在籍時は、ブームの兆しも見えない時期にあたる。在籍期間は、ほぼ一年ほどだったが、受けた影響は大きかった。さまざまな歌手のバックで演奏することの面白さを知ったからである。、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが、「ブルー・シャトー」で大ヒットし、第九回日本レコード大賞に輝くのは67年。私がブルコメを離れてから、間もない時期だった。ハワイアンからロカビリーへと移ったブームは、歌謡的な要素を取り入れたエレキバンド、GSブームへとなだれこんでいった。