江藤勲の音楽夜話/第二夜 

<語り/江藤勲 聞き書き/青山弦>

ハワイアンミュージックが大ブームだった、といっても、当時を知らない人には、まったくピン! と来ないかもしれないが、昭和30~40年初期に、若者に最も人気が高かったのがハワイアンだった。ブームを牽引したのが、各大学の音楽サークルだ。高校生ながら、日本獣医畜産大学のハワイアンバンドに出入りするようになり、私は楽器を手にするようになった。

渡されたギターは、ピックアップなしのフルアコースティック。ネックは太く、おまけに反っていて、弦高は半端じゃない。とても弾き辛いそのギターを抱えて、覚えたてのコードでリズムを刻むと、ほんとうに指先に血がにじんだ。しかも間違えると、すかさずスチールギターの、あの重たい鉄のバーで、先輩から頭をゴチン! とやられる。頭はコブだらけ、手は血まみれ。もう泣きたいのだけれど、それでも音楽はやめられない。ギターを奏で、音をつむいでいくことが、楽しくて仕方がなかった。

演奏以外にも、高校生にはいろいろな仕事があった。先輩に成り代わって、大学の授業に出席するのもバンド活動のひとつ。白衣を着せられ、指定の場所に行くと、なんと、馬の出産を見学する実習だった。先輩を恨んでも、もう遅い。途中での退席もかなわず、隅で小さくなって、授業が終わるのをひたすら待ったこともあった。

ある日、先輩から「ギターを募集しているプロのバンドがある。江藤くんなら受かるかもしれない」といわれ、オーディションを経て所属したのが、「時田よしゆきとグリーン・アイランダーズ」だった。学生バンドから、いきなりプロの仲間入りをし、毎日が音楽の勉強だった。楽譜が読めるようにと、「コールユーブンゲン」を独学したのもこのころだ。音楽に熱をあげるほどに、高校の学業は、当然おろそかになる。母はたびたび、職員室に呼び出された。それでも終生、私の音楽活動を陰から見守ってくれたのが母だった。

そうこうするうちに、先輩から「ベースが辞めたので、江藤くん、今日からベース担当」と宣告された。「えっ!弾けませんよ!!」と訴えると、ギターは弦が6本、ベースは2本少ない4本。チューニングは、E/A/D/G。「はい、コレ!」と渡されたのが、忘れもしない、グヤトーンのエレキベースだった。ついに、電気楽器を弾ける、そのうれしさは、天を突き抜けて、宇宙に飛び出しそうなほどだった。

ベーシスト人生のスタートとなった楽器、グヤトーン(東京サウンド)は、日本の老舗エレキ楽器メーカーだが、残念ながら、昨年で会社がなくなったと聞いた。バンドブームでメーカーが誕生し、ブームが去ると、消えていく。いまに始まったことではないが、半世紀以上続いた老舗の退場には、やはり、寂しさがある。ミュージシャンにとって、楽器は大切な伴侶。その楽器をつくるメーカーや職人もまた、音楽の大切な仲間だ。