私の交友録 6.

 

吉沢元治

吉沢さんは本当の意味でJAZZを芸術の域まで追求した人だった。フリージャズと即興演奏をとことん追求しているうちに金もなくなりベースも売ってしまい、自分で作ったアップライトアコースティックのベースを弾いていた。なんとベニアで出来たこのベースを日々研究して独自のベース音を求めていた。

彼の演奏は今迄見た事の無い『壮絶』と言う言葉が当てはまる凄い究極演奏だった。いつも50人位の少ない観客だが、必ず2、3人失神状態の人を見た。演奏後座り込んだまま動けなくなるのだ。

吉沢さんの一途な人間性に、なにか近親感を覚え一緒に楽器も作った。あのペンギンベースである。どうしても音に芯が出ないというので『魂柱』をたててみたらと言うと早速やってみて『凄く良くなった』といって演奏してみせた。やはり楽器は単板の方がいいんじゃないかと思い、単板のベースも作った。(現在このベースはローランド・ゲリンが大切につかってくれている)

彼は身体を癌に侵され始めていた。住んでいない信濃大町の家があるからそこで休養したらいいんじゃないかといったら一週間後には大町に移動していた。こんな奇才天才の芸術家が田舎の村にいったのだから、村中が大騒ぎになった。

彼はよく雪のかぶった穂高連峰の尾根に粉雪が強風で青空に舞い上がるのを見て 『きれいだ』 と自然の神秘的な美しさに見入っていた。しかし一年もたたない内に姿を消して東京に戻っていた。

立ち去った庭にはベースの表面板が墓標の様に突き刺さっていた。

金がなくなると 『椎野さん、金』 と屈託なく言う。ポケットの小銭と財布の中身を総て渡すと 『飯を食いに行こう。いつものステーキがいい』 と言って私の行きつけのレストラン「キッチンのむら」に行って美味そうに食べ陽気にしゃべり、食べ終わると 『じゃあ』 と言って帰ってしまう。こっちは無一文なんで支払う事が出来ず、あわてて事情を説明してレストランをあとにしたこともある。彼の物怖じしないで生きるその態度は風格があり、音楽に芯から没頭するこの男に心底惚れ込んでいた。

いつだか『吉沢さんの音楽はすぐには凡人には理解出来ない、死んで50年したら世界中で評判になる、巨匠とはそういう運命なんだ。ピカソだってベートーベンだってみんな死後何十年経って評価が出るのだから、すぐ解るものは駄物なんだ』と言うと 『嫌だ、オレは生きてるうちに認めてもらいたい』 と言ったのを今でも強烈に覚えている。

その後2年位で67歳の生涯を終えてしまった。お別れコンサートに招待されたが、偉大な星を失ったショックが尾を引いて行けなかった。

吉沢パパはあれでいいんだ。欲や見栄などどこ吹く風、音楽に一生を捧げる、普通の人間には到底持てない信念。

最近ウェブで見ると彼の評価が上がって来ている。まだ50年も経っていないのに。

文 椎野秀聰

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