私の交友録 9.

グレッグ・ムーア Gregory Moore

体の小さなモータウンのスーパー・ギタリストがグレッグだ。

マービン・ゲイやスティービー・ワンダー、アース・ウィンド・アンド・ファイアー等の、巨匠と呼ばれるアーティストを長年に渡りサポートしており、その見事なカッティング奏法、心地良いリズムには魅了される。人柄はきわめて温厚、控えめで優しく、インテリジェンシーあふれるミュージシャンである。

とにかくギターを弾く事が好きで好きでたまらないという彼は、ギターと時間さえあれば、いつまででも演奏している。仲間を大切にし、決して自分を出し過ぎることもなく、しっかりと自分のパートを固めて音楽の芯を創っている姿は、パフォーマンスをすることが好きなアメリカのミュージシャンの中では異例だと言える。バランスの良いクリアーなサウンドを好み、シングル・コイル系のピックアップ付きエレキ・ギターでシャープな演奏をする彼は、その小さな体でステージ一杯に躍動する。彼には今まで3本のギターを製作し手渡している。

グレッグの息子はコカ・コーラのコマーシャルに出演していた事がある。奥さんも作家として単行本を出版していたり、家族そろってそれぞれが特異な才能を発揮している。そしてグレッグ同様、皆人柄がおおらかで素晴らしい。家族を通し、グレッグの品位ある高い水準の教育家的な面を垣間みるようである。浮ついたところがどこにも見つからない、こんなミュージシャンは世界でもめずらしい。

(一番上の写真:グレッグは右端し)

文 椎野秀聰

私の交友録 8.

成毛 滋

日本にブリティッシュ・ロックを正しく導入したのが成毛 滋である。私は彼とは長い間親交があったが、実際に会った回数はさほど多くはない。

昔々、昭和36〜7年頃の話、T.I.C.(東京・インストゥルメンタル・サークル)というギターをメインにベンチャーズの音楽を演奏する走りのグループ集団があった。いろいろな大学のサークルバンドが中心で、その当時、成毛氏は慶應大学の『フィンガーズ』のリード・ギターを担当していた。成城大学の『マックス・フォー』というグループでは、後にビレッジ・シンガーズのリーダーとなった小松がリード・ギターを弾いていたし、先年亡くなられた三笠宮寛仁親王は、学習院大学の『パニック・メン』でサイドギターを弾いていて、シャープ・ファイブの三根さんもどこかにいた様に記憶しているが、私の記憶は歳とともに怪しくなっているからもし違っていたら申し訳ない。立教大学の『ビートニクス』はT.I.C.のリーダー的存在で、そのグループのバンドボーイに、細野晴臣がいた。ある時細野君にT.I.C.の話をした際に、彼は『ビートニクス』でアンプや楽器運びをしていたと言っていたのでこのあたりの記憶は正しいと思う。他に下町の『ムーン・ドッグス』とか、『チャレンジャーズ』という私の先輩でアメリカ留学帰りの岸辺さんのグループ(ここからブルージーンズ、サベージに入った人がいる)、他にももう一つ二つあって、有楽町のビデオ・ホールで定期的に演奏会を行なっていた。

成毛氏は、当時からいつもいち早く新曲をコピーしては見事に弾きこなしていて、ギターもT.I.C.の中で一番上手かった。

彼と再会したのは、私がグレコギターの監修を手伝い始めた頃だから昭和46年頃で、松本の富士弦楽器という会社でエレキ・ギターの名器?“ニセポール”を成毛氏の強烈な思い入れで作り上げる事になった時だ。グレコ EG360、EG420、EG600、彼の“レスポール”ならぬ“ニセポール”は当時の若者に浸透して爆発的にヒットし、何十万本という第二次エレキ・ブームのロングセラーギターとなった。

このギターはランバコア(ベニア板)でボディーを作ったディタッチャブルのギターだが、若者のギターマインドを取り入れた結構まとまった作りのギターであった。フィードバック奏法にマッチするハンバッキングマイクもCBSソニーのディレクターだった堤さんと成毛氏が音創りをして、ウーマントーンやらをかき鳴らせる、時代を象徴するギターであり、このギターを弾くと誰でもジミー・ペイジになれるという感じがあった。

成毛氏のギターに対する考えは、ナローネック、ショートスケール、つまり彼の手は普通の人より大きくないので弾き易いものが必要であり、そういう意味で“ニセポール”は正に彼の要望にぴったりのギターだったようだ。彼はブルジョアの御曹司だったが、どうも高級な高い値段のギターには興味が無く、安いギターで高級なギターを弾く人を弾き負かすことが好きだった。

その後彼と“Aロック”という、エレキ・ギターのコンテストみたいな催しをしたときの話。彼のアイデアでイギリスのコンサートと同じ様にマーシャル・アンプを4台並べ、PAで音を出すというアマチュアにとっては夢のようなステージをセッティングし、この催しは全国展開して大成功を収めた。同時に日本のエレクトリック楽器の品質が世界のトップレベルになるきっかけをつくり、ここから多くのミュージシャンも誕生した。

彼の写真は数少なく、ウェブで成毛 滋と検索すると eGRECOという項目が出てくる。そこに掲載されているのが冒頭の写真だ。一番成毛氏らしいものなので、是非見てもらいたい。その当時の彼は、「椎野さん、オレはぶん殴ってやりたい奴がいるんだ。」と空手を本気でやっていて、ヌンチャクを振り回していた。彼の頭髪は短く刈られ、写真のあの長い髪は、実はカツラであったと記憶している。

成毛 滋の演奏を、「コピー・ギターで音楽性が無い」とか「指が早く動くだけだ」などとウェブに書き込みをする奴らがいるが、その時代の西洋の新しい音楽の波にいち早く乗り、オリジナルと同じ感覚でギター音楽を伝え演奏した彼の功績は大きい。楽器に対する考え方も常に前向きで、彼は裕福であったがいつも小さい者の味方をして、音楽をこよなく愛した人であった。60歳半ばで突然亡くなられたのが大変惜しいと思う。

お別れ会の時に彼の奥さんが「ギター・アンプの上にコーラの飲みかけのビンを置いたら、烈火の如く怒り、怒鳴りつけられた。」とエピソードを語っていたが、楽器を彼ほど神聖な器と考えていたミュージシャンを他に見た事がない。

詳細については、私と江藤 勳氏がPACOにいる時に来て頂ければ『成毛滋−−ジミー・ペイジになりたかった男』のいろいろな話題を提供できると思う。

文 椎野秀聰

 

私の交友録 7.

イヤローン・ガシュースキー

 イヤローンはマンハッタン・トランスファーのミュージックディレクターでありキーボード奏者である。自身もジャズピアニストとして演奏し最近出したCDは60年代、70年代の軽快なリズムの曲で好評を得ている。

数年前に彼とのんびりとブランチをする機会があって、なんで最近の音楽は楽しくないのかという話になり、1960年代70年代の音楽にはアイデンティティーがあったが、今の音楽にはそれがなく、商品化があまりにもえげつなく進み過ぎたんだという見解で大いに盛り上がった。その時に、自分たちが若者になり始めた頃のヒット曲やポップスのサビの部分を次々に歌って愉快なひとときを過ごした。その結果彼がつくったのが最近出したCDである。パコで販売しているので、是非一度聞いてみて頂きたい。

マンハッタン・トランスファーは長い間世界に多くのファンを持っていて、その秘密は女性ボーカルの特殊な歌い方と、あの爺さんの、時に使う低音域の幅広い声、バンドの演奏が出過ぎずにしっかりとサポートしている事が上げられる。彼が選出するバンドメンバーも若く有能で、しかも真面目なミュージシャンで構成されていて、いつ会っても皆気持ちがいい人ばかりである。

私はピアノやキーボードの音質や音色について、インスペクターとしての彼の意見を多いに参考にしている。其れは彼の音に対する見解が偏っていないのと、的確な表現をするスマートさがあるからだ。スタインウェイ、グロトリアン、ベーゼンドルファー、ヤマハの音色の違いを彼は的確に語ることができ、シンセキーボードについてもいろいろと教えてくれる。またジャズにはスタインウェイが適していると彼は言い、ヤマハはやっぱりダメかねと聞くと、最近のヤマハ CX5はバランスがよくどんな曲にもマッチするとのことだ。彼はイタリアのファツィオリ(FAZIOLI)というピアノがイメージングだと言っている。この会社は1981年創立の小さな会社だが、何たってピアノは元々イタリアで最初に作られたので、イタリア人のピアノに対するスピリットは半端ではないだろう。楽器は大きな会社ではいい物は作れない。これが私の信念でもある。ピアノはそれぞれ製造会社のモデルによっても音のバランスや音色が異なるから、自分で弾いて音を確かめて自分に合ったものを選ぶようにするべきだ。楽器はブランドや値段ではなく個体差で当たりはずれがあるので、実際に自分で弾いてみるというのが絶対におすすめだ。

彼とつきあって長いことになるが、ミュ−ジシャンで彼ほど真面目な人間を見た事は無い。写真は彼の可愛い孫娘である。

文 椎野秀聰

私の交友録 6.

 

吉沢元治

吉沢さんは本当の意味でJAZZを芸術の域まで追求した人だった。フリージャズと即興演奏をとことん追求しているうちに金もなくなりベースも売ってしまい、自分で作ったアップライトアコースティックのベースを弾いていた。なんとベニアで出来たこのベースを日々研究して独自のベース音を求めていた。

彼の演奏は今迄見た事の無い『壮絶』と言う言葉が当てはまる凄い究極演奏だった。いつも50人位の少ない観客だが、必ず2、3人失神状態の人を見た。演奏後座り込んだまま動けなくなるのだ。

吉沢さんの一途な人間性に、なにか近親感を覚え一緒に楽器も作った。あのペンギンベースである。どうしても音に芯が出ないというので『魂柱』をたててみたらと言うと早速やってみて『凄く良くなった』といって演奏してみせた。やはり楽器は単板の方がいいんじゃないかと思い、単板のベースも作った。(現在このベースはローランド・ゲリンが大切につかってくれている)

彼は身体を癌に侵され始めていた。住んでいない信濃大町の家があるからそこで休養したらいいんじゃないかといったら一週間後には大町に移動していた。こんな奇才天才の芸術家が田舎の村にいったのだから、村中が大騒ぎになった。

彼はよく雪のかぶった穂高連峰の尾根に粉雪が強風で青空に舞い上がるのを見て 『きれいだ』 と自然の神秘的な美しさに見入っていた。しかし一年もたたない内に姿を消して東京に戻っていた。

立ち去った庭にはベースの表面板が墓標の様に突き刺さっていた。

金がなくなると 『椎野さん、金』 と屈託なく言う。ポケットの小銭と財布の中身を総て渡すと 『飯を食いに行こう。いつものステーキがいい』 と言って私の行きつけのレストラン「キッチンのむら」に行って美味そうに食べ陽気にしゃべり、食べ終わると 『じゃあ』 と言って帰ってしまう。こっちは無一文なんで支払う事が出来ず、あわてて事情を説明してレストランをあとにしたこともある。彼の物怖じしないで生きるその態度は風格があり、音楽に芯から没頭するこの男に心底惚れ込んでいた。

いつだか『吉沢さんの音楽はすぐには凡人には理解出来ない、死んで50年したら世界中で評判になる、巨匠とはそういう運命なんだ。ピカソだってベートーベンだってみんな死後何十年経って評価が出るのだから、すぐ解るものは駄物なんだ』と言うと 『嫌だ、オレは生きてるうちに認めてもらいたい』 と言ったのを今でも強烈に覚えている。

その後2年位で67歳の生涯を終えてしまった。お別れコンサートに招待されたが、偉大な星を失ったショックが尾を引いて行けなかった。

吉沢パパはあれでいいんだ。欲や見栄などどこ吹く風、音楽に一生を捧げる、普通の人間には到底持てない信念。

最近ウェブで見ると彼の評価が上がって来ている。まだ50年も経っていないのに。

文 椎野秀聰

私の交友録 5.

スティービー・ワンダー

知らない人がいないこのビッグ・ガイは、実に気さくな人間でもあるのだ。
彼は大きなステージで演奏をする前には、スタッフを集めてその大きな手でスタッフ全員と手をつなぎ、円陣を組んでショーの成功を祈願したりする。

いつだったか、彼のショーがさいたまスーパーアリーナであり、彼の為にサングラスを作って持って行った時の事。彼はその時かけていたサングラスをはずして、私が持って行ったものをかけて見せた。このサングラスは、その時若者に大変人気のあった“モンキー・フリップ”というメーカーが私達のオーダーにより作ったオリジナルで、スティービーのグループ全員にプレゼントしたのだ。
アルミで削り出されたデザインのこのサングラスは彼らにとても良く似合ったが、スティービーの顔が予想よりはるかにデカかったため、幅が足りずにやや開きぎみになってしまい彼にはフィットしなかった。
一般的には日本人はデカ面人種であるが、外国人は顔の幅が日本人より狭いし、耳までのリーチも短い。つまり、全体的に頭が小さく前後に長いタイプが普通だが、この巨人は身体同様に頭もデカいのである。

スティービーと一緒に写真を撮ろうとすると、いつも彼は必ずカメラの方を向くので少しは目が見えているのかと思ってしまうのだが、決してそうでは無い。彼の聴覚の鋭敏さがそうさせているのだ。

毎回50人ほどだろうか。彼は障害のある人たちをショーに招待し、公演のあとはどんな会場でもその人たちと握手をしたり話をしたり、優しくコミュニケートする。どんなに疲れていても、いつも人と交わることを欠かさない、人間的に立派なミュージシャンである。

これも彼のショーへ行った時の事だが、演奏が終わり彼の楽屋へ行くと奥さんを紹介された。とても理知的な美人だった。結局、彼を立ててしっかりコントロールしているのは彼女ではないかと思った。内助の功ということだろう。

年々スティービーは身体が大きくなり体調があまり良くない様だが、もう一度健康面でのケアやサポートができればまだまだ良い曲をつくり続けられることだろう。
来日の機会も少しずつ減っているのが気がかりである。

彼の写真に写っている黒メガネの男は、彼のエスコートガードである。

文 椎野秀聰