音楽を大切にしていたCDストア “Hear Music Store”

 

「フォークやカントリーが、いまこんな感じになっているよ!」ということで、Hear Music Storeのスタッフが教えてくれたのが、まだ日本では聴くことの少なかったBeck。

文・写真/青山弦

いまは昔のこと。サンフランシスコの隣街、バークレーまでCDを買いに行ったことがある。タワーレコードが人気を集め、「メガCDストア」なんて言葉が使われはじめた頃だから、ほんとに昔のことだ。

わざわざ日本から出かけたのは、「物量で勝負するストアとは違うコンセプトのCDストアが出来ないか?」と、某流通企業から依頼があったからだ。当時、フリーランスのプランナー(企画屋?)を仕事にしていた私は、そのプロジェクトチームの一員に加わっていた。

考えたコンセプトは、「音楽離れした大人たちが戻ってこられる場所」という漠然とした姿。それなら、是非見ておくべきCDストアがある、ということで、現地の音楽プロデューサーに紹介されたのが、バークレーの店だった。オーガニックなカフェやレストランのある4th Streetに、その小さな一軒家のCDストアはあった。

行ってまず、そのたたずまいにビックリした。店の前にイーゼルを立て、黒板には手書きで「今日のおすすめCD」が書いてある。まるで、ビストロみたいな店構えだったからだ。

店内に入って、またビックリ。ロックのコーナーは、ロン毛のお兄さん担当。ジャズのコーナーは、クラニネットの似合いそうな、品の良い白髪の白人男性担当。そしてブルーズのコーナーは、でっぷり太ってオーバーオールを着た黒人の爺さんが担当だったのだ。一軒家の各部屋に、それぞれの担当がいて「彼等が自分で聴いて、これは!」と思った面白い音楽を集めている、メガCDストアとは対極の店が、Hear Music Storeだった。

そしてさらにビックリしたのが、「リスニング・カウンター」があって、店内ストックのCDが、好きなだけ試聴出来ることだった。しかも担当が対面で、「この曲なんかどう?」って感じで、コンサルしながら聴かせてくれた。自分の耳で、あらかじめ聴いているからこそ出来る芸当だった。これにはもう、ほんとうにビックリ仰天した。

何にそんなに驚いたのかと言えば、商売以前に「いい音楽をとどける喜び」が、彼等の言葉からヒシヒシと、伝わってきたからだ。当時、サンフランシスコでは、バーンズ&ノーブルブックセラーズが、立ち読みどころか、店内に椅子まで置いて、スローに本を選ぶスタイルを提案して話題になっていた(日本の本屋がそのスタイルを真似しだすのは数年後のこと)。「ああ、こういう時代になったんだ!」というのが、サンフランシスコに滞在しての率直な印象だった。

結局、新CDストア構想は、店舗の設計まで完成していながら、六本木の再開発計画が降って湧いて、計画が立ち消えになってしまった。そしてHear Music Storeは、いまはスターバックスの音楽販売部門になって、当時の店はもうないそうだ。

あれから、ずいぶん歳月が積もったが、その後の音楽を取り巻く環境は、どうだろうか。街中に音楽はあふれているが、いい音楽と出会える場、音楽を愛する人が集える場は、逆に姿を消してはいないだろうか? そんな現状にあって、「PACO復活!」を知ったときには、心からありがたい、と思ったしだいだ。若いときに出会う音楽も大切だが、大人になってはじめて響いてくる音楽もたくさんあるのだから。

 

現代の吟遊詩人〝バウル〟

文・写真/青山弦

川内有緒著 『バウルを探して』 幻冬舎

現代にも、中世のトルバドォール〝吟遊詩人〟のように暮らす音楽師たちがいる。粗末な楽器を弾き、詩を唄いながら放浪生活を行う人々だ。世界には、現在でもさまざまな音楽師がいるようだが、私が出会ったのは、かれこれ30年以上前。インド西ベンガルの田舎でのことだった。現地で彼等は「バウル/BAUL」と総称される。

なにしろ昔の旅のこと、バウルのことなど、すっかり忘れていたが、上の写真の本が今年2月に出版されて、久々に当時を思い出し読んでみた。内容はバウルに興味を抱き、バングラデシュまで〝バウル探しの旅〟に出た日本人女性の顛末記だ。

最初は懐かしさだけで手に取ったが、読み進むうちに、展開に惹きこまれた。読み物としても、相当に面白い本だが、それ以上に私が興味を惹かれたのは、バウルがなぜいまも〝吟遊詩人〟として生きるのか、そこに著者が向き合っていたからだった。サブタイトルに「地球の片隅に伝わる秘密の歌」とあるように、この本ではバウルの唄う詩の内容にまで、踏み込んで書かれている。

バウルとはなにか、ひと言で語るのは難しいし、手短な要約では誤解を生むので、興味のある人は、是非本書を読むことを勧める。大げさな言い方になるが、この本には、読む人が、読めば、〝音楽(言葉と旋律)とは、なにか……〟ということにも通じる深遠なテーマが書かれている、と私は読んだ。人を愉しませるための音楽は近世以降のもの。それ以前は、祈りを捧げるためにこそ音楽や楽器はあった。〝秘密の和音〟や〝秘密の歌詞〟は、秘されるだけの意味があるのだ。そうした意味を知りつつ伝承している音楽師が、細々ながらも、世界にはいまも存在する。

さて、昔むかしに私が田舎道で出逢ったバウル。彼がどんなメロディの唄を聴かせてくれたか、すでになにも思い出せないが、印象だけは、いまもって鮮明だ。痩せた身体から絞り出すように唄った彼の声は、まさに〝割れ鐘〟のような響きで、私はその迫力に圧倒された。後年、同じような唄声を聴いたことがある。フラメンコの〝カンテ/Cante〟と呼ばれる歌唱だ。昨今では人種のDNA解析が進み、フラメンコを唄い演奏するヒターノ(ジプシー)の人々のルーツが、北インド地方ということが判ってきているそうだ。その話を聞いたときに、私が真っ先に思い出したのが、バウルの唄声だった。

ちなみにバウルが弾く楽器は〝エクターラ〟という、一弦の原始的な楽器。現在のギターの先祖をはるかにたどっていけば、この辺に行き着くのではないか……、と私は思っている。長い長い目で見れば、音楽や楽器は、いつだって旅の途上にある。旅をしながら唄や楽器は、各地の文化と出逢い、その姿をかえていく。

 

江藤勲の音楽夜話/第八夜

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

ベーシスト江藤勲が語る音楽のあれこれ

リズムとグルーヴの深い仲

レコーディングのために編成されるバンドは、基本、そのとき限りである。各人にお呼びがかかり、スタジオで顔を会わせるまでは、どんなメンバーが組まれているのかはわからない。楽曲についても同じで、事前に譜面を渡されることはまずなかった。スタジオ入りしてはじめて、当日の楽曲を知ることになる。

機材のセッティングが済めば、すぐに音合わせがはじまる。初見で2~3回も弾けば、通常はすぐにテープが回る。そうして録音された音源が、レコードとなり、ヒット曲ともなれば、メディアでくりかえし流され、後世までのこることになる。演奏するのは一瞬でも、求められるのはトップレベルのサウンド・クオリティである。〝プロ〟といえば、これほどプロフェッショナルな音楽稼業もないだろう。

レコーディングの際、ベーシストに求められるものとは、なんだろううか?

基本中の基本は、〝正確無比なリズム〟である。これが出来なくては話にならない。これまでに、さまざまな人から、「では、江藤さんは正確なリズムを刻むために、なにを心がけていますか?」という質問を受けてきた。そのたびに私は、「トップ・シークレットだけど、特別に……」と前置きしたうえで、「ほんとうのグルーヴが生まれていれば、リズムは狂わないもんだよ!」と答えてきた。

グルーヴ(groove)の定義は簡単ではない。一般には演奏時の高揚感、一体感、単に〝ノリ〟ともいわれる。これを〝自分勝手に気分よく弾けばグルーヴが生み出される〟と勘違いしている人がいるが、まったくの的外れだ。グルーヴを表現するには、実は〝正確無比なリズム〟が必要不可欠なのである。正確なリズムが屋台骨となってはじめて、大きな〝うねり〟が曲の表に顔を見せてくれる。

逆もまた真なりで、しっかりとしたグルーヴが息づいて、それをメンバー全員が的確に感じ合っていれば、リズムが乱れることはない、そういい換えることも可能だ。(結局、「正確なリズムを刻む」その答えは、自分で発見するしかないということになる)

レコーディングの際にガイドで流れるリズムのことを業界用語では〝カマ(ドンカマ)〟という。これをもって「カマがあるからレコーディングはラクですよね?」と、口にはしないが、心で思っているヤカラもいるようだ。しかしこうした発想は、音楽の本質をまったく知らない妄言に等しい。なぜなら、いくらガイドがあっても、走る人は、突っ走るし、モタつく人のリズムからは、ちっとも、ドライブがうまれないからだ。

さて、ここから先は、正真正銘の〝極秘〟だが、今晩は特別に……。

リズムとは〝同じ間のくりかえし〟ではない。リズムは一瞬、一瞬が勝負なのだ。勝負をかけた、その鮮烈な音がつながってはじめて、グルーヴは立ちあがってくる。

リズム、グルーヴとは、実にそうしたもので、だからこそベースは面白い!

江藤勲の音楽夜話/第十夜

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

ベーシスト江藤勲が語る音楽のあれこれ

クレイジーキャッツとドリフターズ

今夜は目先を変えて、むかし話を……。
ハナ肇とクレイジーキャッツ、彼等が大活躍していた当時を知らない若い人も多いかもしれないが、昭和の映画、テレビ、音楽界にあって、クレイジーの人気と実力は、群を抜いていた。もともとが進駐軍のキャンプで演奏したジャズバンドだけあって、楽器を手にすれば、音楽的にも素晴らしい才能と個性が集っていた。
私がクレイジーの面々と知り合ったのは、テレビのバラエティ番組『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)が、最初だったと思う。渡辺プロダクション所属の、多くの歌手たちのバックでベースを弾くうちに、番組のレギュラーである彼等と知り合うようになった。
リーダーのハナ肇氏からは特に可愛がっていただいた。まさに〝親分肌〟の人情に厚い人柄で、私は〝親父さん〟と呼ばせていただき、ことあるたびにかたわらに私を置いてくださった。壮観だったのが、毎年ご自宅で開かれる新年会。芸能関係の著名人はもとより、野球界の名士から、ときの首相までが顔を出し、それはそれは凄い顔ぶれだった。
晩年には、「ハナ肇とオーバー・ザ・レインボー」というバンドを組み、そのベーシストとしてお供することも多かった。クレージーからは、トロンボーンの谷啓氏が、またかつてのメンバーだった稲垣次郎氏がテナーサックスで参加していた。「オーバー・ザ・レインボー」というバンド名の理由をうかがうと、映画『オズの魔法使い』も、その挿入曲であるジュディー・ガーランドの唄った『虹の彼方に』も、大好きだからとのお返事。ロマンティストなハナさんの一面を見た思いだった。
ハナ肇とクレイジーキャッツの弟分のような存在が、ザ・ドリフターズである。彼等の69年の大ヒット曲、『ドリフのズンドコ節』のレコーディングでベースを弾いた縁で、お付き合いがはじまった。ちなみにスタジオに集ったのは、ギターが成毛滋、ドラムが石川晶だったと記憶している。その後、リーダーのいかりや長介氏から、「ベースでドリフに入りなよ!」と冗談ともつかないようにいわれたことがあった。「だって、ベースは長さんのパートじゃないですか!」と答えると、「江藤くんの方が上手いよ!」といって笑っておられた。
まかり間違ったら私も、テレビで、♪ズンズンズンズンズンズンドコ♪と踊っていたかもしれない……? いやいや、ベースは弾けても、コメディは素人。とてもドリフの仲間入りは出来なかっただろうけど(笑)。
〝コミカル・バンド〟というジャンルが、ショー・ビジネスから消えて久しいが、音楽と笑いで、軽妙洒脱に人々を愉しませるエンタテインメントの復活を、是非望みたい。ただし、これは相当に高度な芸であることも確かだ。

江藤勲の音楽夜話/第四夜

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

初任給は当時、破格の8千円!

なんとか高校を卒業するころには、バンド活動がもう完全に生活の中心だった。

在学中から所属した「時田よしゆきとグリーン・アイランダーズ」は、当時人気絶頂だったハワイアンバンドのひとつ「ポス宮崎とコニー・アイランダーズ」の弟分のような存在で、俗にいう〝トラ〟(エキストラの略)を務めていた。兄貴分が引く手あまたで、演奏を掛け持ちしてもまわり切ることができないホールや小屋に、ピンチヒッターとして出向き、演奏するのである。

そうこうして各地で演奏するうちに、〝トラ〟のグリーンアイランダースにも、お呼びがかかった。銀座に開業間もない東急ホテル(現在は共同通信社社屋)が、屋上にハワイアン・ビアガーデンをオープンすることになり、その専属バンドとして夏の間、思う存分に演奏が出来ることになったのだ。酔客相手の演奏とはいえ、場所は銀座。しかも話題の最新ホテル。演奏に熱が入らないわけがない。ネオンが灯り、ステージが夕焼けに染まるころ、スチールギターのメロディが銀座の街に流れる。演奏を始めるときの誇らしい気持は格別だった。

月末にバンマスから給料袋を渡された。袋をあけてビックリ!千円札が、8枚も出てきたのだ。「好きな音楽をやって、こんなにもらえるの!」と絶句したものだ。当時、4畳半の部屋の家賃が月で5千円しなかったはずだ。音楽の道で生きていけるかもしれない。それまでの趣味から、仕事として音楽を意識し出すきっかけが、十八歳の夏の演奏だった。

兄貴バンドのポス宮崎とコニーアイランダースは、ペダル・スチールギター担当でリーダーの宮崎氏が若くして他界されたこともあり、ずいぶん以前に解散していたが、ファルセット・ボイスがいまも健在の松下氏をリーダーに、「ジョージ松下とコニーアイランダース」として再結成の運びとなった。記念すべき再結成初舞台は、HAWAIIAN FESTIVAL(日比谷公会堂/2013/06/09)となった。

メンバーは以下の通り。原澤智彦(G)、鈴木和彦(SG)、ジョージ松下(U/Vo)、岩佐三郎(U/Vo)。そして私は、ベースを担当させていただく。このごろは、どこで演奏しても最年長になることが多いが、新・コニー・アイランダーズでは、私もまだ若輩。諸先輩方の背中を見ながら、ベースを弾かせてもらいます。

Bob Dylanのラジオの時間ですよ!

PACO1977に展示の1950年代真空管クロックラジオ ZENITH DELUXE。ギターだけでなく、アンティークラジオのコレクションでも、PACO1977は一見の価値ありだ。

文・写真/青山弦

かつて、耳あたらしい音楽は、いつだってラジオから聴こえてきた。音楽を聴きはじめた子どものころ、毎晩のラジオは、それこそ友達みたいなものだった。でも、いつしかラジオとは縁遠くなり、ずいぶん以前から、ラジオをまったく聴かなくなっていた。

それが最近、ちょっと変わった。久々に、毎週ラジオのスイッチを入れるプログラムができた。PACO1977のメンバーなら、すでにチェックしている人もいるだろう。それが、Inter FMで木曜20時(再放送日曜22時)からはじまるこの番組だ。

Bob Dylan’s Theme Time Radio Hour

ボブ・ディランがパーソナリティで、たっぷり60分音楽がかかる。2006~09年にアメリカの衛星ラジオで100回まで放送された番組だそうだ。聴きどころは、ズバリ!音楽。オン・エアされる曲の多くが、日本では、まず電波にのることのない、40~60年代の、カントリー、ブルーズ、ジャズ、ポップスばかり。よくもまあ、こんなヘンテコな曲を見つけてくるぜ……、っていうサウンドが次々に登場する。最後に曲目を解説してくれるピーター・バラカン氏も、「はじめて聴いた!」というミュージシャンと曲が、これでもか、とばかりに登場する。

ユニークなのが、曲のあいまに聴こえてくるディランのおしゃべり。あのかすれたダミ声で話す英語は、私にはほとんどわからないが、それでも耳に心地よいのは、ディランのおしゃべりが、詩を読みあげているような語り口で、まるで唄うように聴こえてくるから。

5月16日のテーマ“Luck”の回でON AIRされた曲を番組ブログから転載するとこんな感じだ。

  1. Happy-Go-Lucky-Me — Paul Evans (1960)
  2. Bad Luck Blues — Blind LemonJefferson(1926)
  3. Bad Luck Soul — B.B. King (1960)
  4. Bad Luck Come My Way — Eddie Dugosh & The Ah-Ha Playboys (1956)
  5. Lucky Seven — The Skatalites (1965)
  6. Alright, Okay, You Win ! — Buddy & Ella Johnson (1955)
  7. The Same Thing Could Happen To You — Lazy Lester (1965)
  8. I’m Just A Lucky So And So — Annie Ross & Zoot Sims (1959)
  9. You Can’t Be Lucky All The Time — Roosevelt Sykes (195?)
  10. Take It Away Lucky — Eddie Noack (195?)
  11. Bad Luck Blues — Guitar Slim (1953)
  12. Wheel Of Fortune — Kay Starr (1952)
  13. If I Lose — The Stanley Brothers (1958)
  14. Mr. Hard Luck — The Orbits (1957)
  15. You Win, I Lose — Little Johnny Taylor (196?)
  16. Three Cheers For The Loser – Wynn Stewart (1962)
  17. Here’s To The Losers — Frank Sinatra (1961)

この番組、時々フランク・シナトラを選曲する。ラジオからシナトラのあの甘い声が流れてくると、なんとも心地が良い。レコードやCDで聴くのとは違うよさが、ラジオの音楽にはある。それがBroadcastということだろうか。この曲を聴いている人が、自分のほかにもたくさんいる、そう思わせてくれること。それでいて、一人ひとりの耳もとで、囁かれているようにも聴こえるからラジオは不思議だ。そういえば、ピーター・バラカン氏は、自身をブロードキャスターと名乗っている。直訳すれば「同時通報者」。いい音楽の同時通報こそ、ラジオの魅力ではないだろうか。

 

江藤勲の音楽夜話/第十四夜

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

ベーシスト江藤勲が語る音楽のあれこれ

復刻ORENDER Bass/オレンダー・ベースギター

エレクトリックベースの「オレンダー」が、PACO1977から復刻された。
先ごろ開かれた製品発表会(2013年9月)で、そのサウンドを聴いた読者もいるだろう。
私が初めてオレンダーを手にしたのは1963年ごろのことだ。ブルーコメッツを一時的に抜けたベーシスト高橋健二氏と入れ替わりで私が加入した際に、高橋氏からアンプとともに譲り受けたベースがオレンダーだった。高橋氏は65年に再加入されるが、その折には、ファーストマンのベースを使用し、オレンダーは、ブルーコメッツ退団後も江藤がそのまま弾くことになった。
かつて自分の演奏していた楽器が新たに復刻されるのは、ミュージシャン冥利に尽きる。再び楽器を手に出来る悦びもさることながら、このベースを求める現代のベースマンがいることに感謝したい。そうしたひとりで、復刻オレンダーのオーナー第一号となった酒井秀一さんから、オレンダーの来歴情報が寄せられたので紹介しよう。彼はベースを演奏するだけでなく、楽器そのものにも深い興味を持ち、コツコツと調べている。私よりもオレンダーの系統変化に詳しいのだ。以下<・・・>内は、酒井さんのコメント。

<元祖オレンダーは、TEISCO(テスコ)社製のベースギターだ。製品化にあたっては、米軍キャンプにあったフェンダー社/プレシジョンベースを撮影、実物大に引き伸ばし採寸コピーしたと言われている。しかし細部の仕様には異なる部分も多い。最も大きな違いは、フェンダー製がボルト・オンネックであるのに対し、テスコ製はセットネックであること。またボディサイズが、オレンダーは小振りである。テスコ社製を私(酒井)は所有していないので資料からの推測になるが、テスコではカスタムのオレンダーをもとに、2系統の量産機種を製造している。ピックアップがオレンダーと同一構造のプレシジョンタイプのEB-18。もう1系統は、より高級機種として発売された、ジャズベースタイプのNB-4。NB-4はテスコ独自のヘッド先端アールが強調されており、江藤氏が数々の名演をされた元祖オレンダーに、すでにその萌芽を見ることが出来る。>
<さて、PACOの2013年復刻モデルを弾いての印象だが、これは凄い。小振りのボディから想像出来ないほど、豊かなサウンドがする。アンプにつながずにナマ音で弾いてみると、楽器本体が鳴っているのがよくわかる。マホガニー材をボディに使用した軽さも特筆もので、ショートスケールのネックとあいまって、非常にプレイヤビリティに優れている。ネックにブランド・ロゴはなく、江藤勲氏が直筆サインをしてくれるのもファンには堪らない。音楽の一時代を築いたレジェンドをリスペクトするという音楽文化が日本には希薄だが、このベースこそ、そうした音楽文化を体現する2013年の復刻版といえるだろう。>

酒井さんどうもありがとう!
ミュージシャンにとって楽器は伴侶ともいえる存在だ。そんなかつての伴侶の末裔が、今度は若いミュージシャンの手で新たなサウンドを紡いでいく。そう考えるだけで、なんとも豊かな気持になる。

最後に情報をもうひとつ。
音楽ライターのガモウユウイチ氏による丹念なディスコグラフィ解説
「オレンダーを聴く100枚」を下記で読むことができる。
ベーシスト 江藤勲のホームページ