江藤勲の音楽夜話/第十三夜

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

バッハで空前絶後のグルーブを体験!

ピアニストにしてアレンジャー、プロデューサーとしても活躍する佐藤允彦氏に声をかけられ、バッハを演奏したことがある。バッハ生誕を記念したアルバムの録音だった。60年代から佐藤氏とは演奏する機会があった。フォーク・ブルーズを彼がアレンジしたアルバムのセッションや、弘田三枝子さんの「ミコR&Bを歌う」の演奏でもベースを務めた。ジャンルを越えてピアニスト、アレンジャーとして幅広く活躍する才能だ。
さてこのときの御題は、〝バッハ〟だった。集ったメンバーには、石川晶(d)、杉本喜代志(g)、村岡健(ts)の各氏がいたと記憶している。
そのリハーサルでのことだ。最初はアレンジどおりに演奏していたのだが、途中からアドリブでのフリーなセッションに突入した。打ち合わせは一切なし。もう1コードで各自が延々、演奏に没入していた。バッハの音楽を土台に、自由にイマジネーションを膨らませていく。ベースの私は、16ビートのジャズでも、8ビートのロックでもなく、なにかもっと大きく巡る3拍子、そうワルツを刻んでいたように思う。
すると不思議なことが起きた。スタジオ内のすべての動き、サウンドが、まるでスローモーションの映像を見聴きしているような状態になっていった。私だけ気がおかしくなったのかと周りを見渡すと、ギターの杉本氏の表情が、あきらかにいつもと違う。まるでなにかに憑かれたかのごとく、一心にギターでリズムを刻んでいた。
メンバーの紡ぎ出したサウンドは、それは! それは! 実に素晴らしく迫力に満ちた演奏だった。言葉にするのは、何とも至難の業だが、〝全員で成層圏まで飛んでいった感じ〟とでも表現しようか。各自が即興でうみだすグルーブが、影響を与えあい、渦を巻き、大きな円環となり、さらにのびのびと拡がり、いくらでも大きくうねっていく。サウンドが螺旋を描きながら発展しスピンした。そうしたグルーブがロケットエンジンになって、演奏しているわれわれを吹っ飛ばし続けた。
時間にしてどれほどだっただろう。時計では測ることのできない濃密な音の重なりは、いつまでも果てがないと思われたころ、セッションが突然におわった。
リズムを刻んでいた杉本氏が真っ青になって倒れたからだ。演奏に集中し過ぎるあまり、身体が悲鳴をあげていた。メンバーが駆け寄ると、呼吸も絶え絶え、心臓は早鐘のように打っている。すぐにスタジオに救急車が呼ばれ、病院へ搬送された。
このセッションこそは、長い私のミュージシャン経験でも、空前絶後だった。
その楽曲が、ロックでもジャズでもなく、楽聖バッハだったというのが、いまふりかえっても、何だかとても面白い。

江藤勲の音楽夜話/第九夜

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

音楽を表現する力

先回の第8夜で、ベーシストに求められるのは、〝正確無比なリズム〟だと書いた。しかしそれだけでは事足りないのは、読者のみなさんなら先刻承知だろう。
加えて必要なのは〝譜面にこめられた思いを読み解く力〟である。渡された譜面を読み、楽曲にこめられた作曲家の思い、作詞家の言葉の世界を理解し、解釈が出来ないといけない。作曲家や編曲家と、細かな意見を交換するような時間は、スタジオでは、ほとんど皆無である。初見で作曲家と作詞家の互いの意図をくみとっていく。セッション・ミュージシャンの醍醐味をいちばんに感じる瞬間である。
〝譜面にこめられた思いを読み解く力〟を養う上で、なによりも大切なのは〝想像力〟イマジネーションだと私は考えている。では、その〝想像力〟は、どのようにして養われるのだろうか。十人十色、人それぞれの答えがあるかもしれない。私がいえるのは、自分の体験から出た言葉だけである。
私は音楽に出会うことがなかったら、自分の人生がどう転んでいたかわからない、といつも思って生きてきた。それほど音楽に惹かれてきたのは、音楽に救いを求めるしか道がなかったから……、だともいえる。
お恥ずかしい話だが、私の育った家庭環境は、ひどく荒んだものだった。原因は父だった。ギャンブルに身をやつし、母や子どもを顧みることのなかった父と長男の私は、つねに一触即発。ヤルかヤラレルか、いつなにがあってもおかしくない、地獄のような日々だった。そうした暗い子ども時代を経た私が出会った光明が、音楽だった。家では地獄。一歩外に出れば「音楽という天国」。その狭間を行き来しながら高校時代を過ごした私が、卒業とともに家を離れ、のめりこむように音楽の道に進んだのは、当然の成り行きだった。
以来、半世紀あまりの日々のなかで、どれほど音楽に勇気づけられ、助けられてきたか、言葉には尽くしきれない。音楽を仕事にし、今日の私はある。音楽が私に与えてくれたのは、経済的な恩恵だけではなかった。人々と喜びを分かち合い、人生を豊かにしてくれる音楽の力があったからこそ、私はこうして生きていられるのだ。
本題に戻ろう。音楽を理解し、音楽を表現する〝想像力〟は、どこから生まれてくるのだろうか……。
その源は、〝音楽を信じる力〟にこそある、と私は思っている。心に痛みを抱え、救いを求めている人ほど、〝音楽を信じる力〟は強い。私がこれまでに出会った「音楽に身を捧げるようにして生きてた人」は、有名無名を問わず、誰もが音楽を信じ、音楽にすがるようにして生きていた。
悲しみを唄うのは、なにもブルースだけではない。どの民族の音楽にも、その根には、生きることの辛さや切なさがあるはずだ。悲しみがあるからこそ、人は身体でリズムを刻み、メロディを口ずさまずにはいられないのではないだろうか。
現代には、演奏テクニックに長けたミュージシャンが数多い。しかし彼等の奏でるベース演奏を聴いて、「これは!」と、ハッとさせられることは、残念ながら稀だ。「どうして心に響いてこないのだろう……?」と私はよく考える。「自分に聴く耳がないのか……?」と自問することもある。
その原因を、最近はこんなふうに考えている。彼等の演奏を聴いて、心が揺さぶられるまでに至らないのは、そのサウンドから、ほんとうに音楽を求めている人の〝魂の声〟が聴こえてこないからではないか……と。
だからといって、音楽を奏でる前に、なにも進んで、悲惨な体験に身をやつす必要は、さらさらない(笑)。そんな思いをしなくても、すこし〝想像力〟を働かせれば、人生に悲しみはつきものだ。世界は悲惨に満ちている。感受性さえ研ぎ澄ませば、音楽の力は、いつもそこに、あなたの目の前にある。

江藤勲の音楽夜話/第三夜

ベーシスト江藤勲が語る音楽のあれこれ

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

グランドキャバレーの〝ハコバン〟時代

プロのバンドマンとして演奏するようになったころ、栃木県の足利に三カ月間住んだ。グランドキャバレー「女王蜂」という店の、通称〝ハコバン〟だった。店舗(ハコ)の専属バンドが〝ハコバン〟で、住むといっても、寝泊りするのは、キャバレーが借り上げたアパートでのザコ寝だ。

〝グランドキャバレー〟を知っている人も少ないだろうから、簡単に説明しておこう。店にはステージとダンスホール、そして飲食のイス&テーブルがある。かなり規模は大きい。お酒をたのしみながら、バンドの演奏に合わせダンスをするのが基本だ。お酒の相手は〝社交さん〟。ダンスの相手は〝ダンサーさん〟と分かれている店もあれば、そのあたりが曖昧な店もある。〝ホステスさん〟という言葉は、まだ一般的ではなかったと思う。そしてひと晩に数回、ショータイムがあり、歌謡ショーやレビューなどがあった。

こうしたグランドキャバレーでの演奏は、お客さんをいかにたのしませるか、が求められる。ハワイアンだけでなく、ムードミュージックも、流行歌だって演奏する。私たちのバンドにはボーカルがおらず、インストで演奏していたのだが、ある晩、なかなか間が持たなく困っていた。するといきなり「唄やれ!」と、客席から声がかかった。バンマスが私を振り返る。「唄えませんよ!」と目で返すが、こわい目で、アゴでスタンドマイクに立つよう促す。しょうがなくて唄ったのが、「なんだったか……?」、いまとなっては、もう完全に忘れたが、唄い終わると、それまで音楽をロクに聴きもしなかった社交さんたちが、立ち上がって拍手をしてくれたのは、よくおぼえている。

そんな足利時代のこと。朝早く部屋のドアをノックする音がする。下っ端の私が眠い目をこすりながらドアをあけると、いきなり若い女性に、涙ながらに横面をひっぱたかれた。バンド仲間は、蒲団をかぶってクスクス笑っている。でも、そんなんじゃないの。旅から旅で、足利に居つき、三カ月も家に帰らない弟をようやく探し出した姉が駆けつけたのだった。家で待つ母は、警察に「捜索願い」まで出して、あちらこちらを探していたらしい。

ハコバン時代はいろいろと大変な思いもしたが、音楽で人をたのしませることを学ぶ、貴重な体験になった。昭和30年~40年代、日本全体が、戦後復興に燃えた時代は、街に活気があふれていた。生活は豊かでなくとも、音楽を楽しむ熱気が、人々にみなぎっていた。

江藤勲の音楽夜話/第七夜

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

ベーシスト江藤勲が語る音楽のあれこれ

素晴らしい作曲家たちと〝最強のリズム隊〟

いまでこそ〝スタジオ・ミュージシャン〟という言葉は、誰でも知っているが、60年代には、まだまだ一般的ではなかった。

理由のひとつは、レコードジャケットを見ても、歌手と作詞作曲家の名前はあるが、スタジオ・ミュージシャンがクレジットされていることは、当時はほとんどなかったからだ。どれだけヒット曲のレコーディングに関わっていても、スタジオ・ミュージシャンの顔や名前が世間には知られることはなかった。

そうした境遇を嘆き、「いつかはセンターで演奏したい!」と願う仲間は数多かった。しかし、私は違った。数多くのレコーディングに立会い、スタジオ・ミュージシャンとして、さまざまな楽曲に関わるほどに、〝サイドマン〟の奥の深さを知るようになったからだ。

いちばんの契機は、才能豊かな作曲家たちとの出会いにあったと思う。68~69年だけでも数多くの出会いがあった。あまりの忙しさに、個々のレコーディングの詳細は、もはや記憶の外だが、私の年賦に興味を抱いてくれた音楽ライターのガモウユウイチ氏のリストから、その一部をひろい挙げてみる。

  • 『恋のロンド』(ザ・ピーナッツ) すぎやまこういち/作曲 宮川泰/編曲
  • 『ブルー・ライト・ヨコハマ』(いしだあゆみ) 筒美京平/作曲
  • 『ある日渚で』(加山雄三) 弾厚作(加山雄三の/作詞・作曲者名義)
  • 『水色の季節』(浅丘ルリ子) 三木たかし/作曲
  • 『愛の園』(布施明) 平尾昌晃/作曲
  • 『乙女の祈り』(黛ジュン) 鈴木邦彦/作曲
  • 『青い月夜』(奥村チヨ) 井上忠夫/作曲
  • 『薔薇のいざない』(笠井紀美子) 村井邦彦/作曲
  • 『グッド・ナイト・ベイビー』(ザ・キングトーンズ) むつひろし/作曲
  • 『人形の家』(弘田三枝子) 川口真/作曲
  • 『長崎は今日も雨だった』(内山田洋とクールファイブ) 彩木雅夫/作曲 森岡賢一郎/編曲
  • 『雨に濡れた慕情』(ちあきなおみ) 鈴木淳/作曲 森岡賢一郎/編曲 などなど。

なかでも筒美京平氏からは、後もレコーディングのたびに、指名のようにしてスタジオに呼んでいただいた。折しも、筒美京平(作曲)&橋本淳(作詞)の黄金コンビが、GSの多くの楽曲を手がけていたころだ。「グループサウンズ」はバンドだから、本来は各楽器のパートが自前でいるはずだが、〝楽器はお飾り〟のようなバンドもなかにはあって、レコーディングの際には、我々が演奏することがほとんどだった。

特にリズム隊は、ドラム/石川晶、ギター/杉本喜代志、ベース/江藤勲が、どのスタジオ収録にも集まるようになり、いつしか〝最強のリズム隊〟と呼ばれていた。

出合った作曲家の方々を数えあげればキリがなくなるが、ほんとうに素晴らしい人々と、日々、仕事をしていたのだ、と改めて思う。この他にも、中村八大氏、浜口庫之助氏、いずみたく氏といった、錚々たる作曲家がおり、当時の日本の歌謡界が、いかに洗練され、高度な音楽を目指していたのかがわかる。

譜面を読める読者なら、是非、当時の日本の楽曲譜を読んでいただきたい。戦後のジャズに端を発した日本の歌謡界は、1960年代には独自な音楽シーンを生み出すまでになっていた。

江藤勲の音楽夜話/第二夜 

<語り/江藤勲 聞き書き/青山弦>

ハワイアンミュージックが大ブームだった、といっても、当時を知らない人には、まったくピン! と来ないかもしれないが、昭和30~40年初期に、若者に最も人気が高かったのがハワイアンだった。ブームを牽引したのが、各大学の音楽サークルだ。高校生ながら、日本獣医畜産大学のハワイアンバンドに出入りするようになり、私は楽器を手にするようになった。

渡されたギターは、ピックアップなしのフルアコースティック。ネックは太く、おまけに反っていて、弦高は半端じゃない。とても弾き辛いそのギターを抱えて、覚えたてのコードでリズムを刻むと、ほんとうに指先に血がにじんだ。しかも間違えると、すかさずスチールギターの、あの重たい鉄のバーで、先輩から頭をゴチン! とやられる。頭はコブだらけ、手は血まみれ。もう泣きたいのだけれど、それでも音楽はやめられない。ギターを奏で、音をつむいでいくことが、楽しくて仕方がなかった。

演奏以外にも、高校生にはいろいろな仕事があった。先輩に成り代わって、大学の授業に出席するのもバンド活動のひとつ。白衣を着せられ、指定の場所に行くと、なんと、馬の出産を見学する実習だった。先輩を恨んでも、もう遅い。途中での退席もかなわず、隅で小さくなって、授業が終わるのをひたすら待ったこともあった。

ある日、先輩から「ギターを募集しているプロのバンドがある。江藤くんなら受かるかもしれない」といわれ、オーディションを経て所属したのが、「時田よしゆきとグリーン・アイランダーズ」だった。学生バンドから、いきなりプロの仲間入りをし、毎日が音楽の勉強だった。楽譜が読めるようにと、「コールユーブンゲン」を独学したのもこのころだ。音楽に熱をあげるほどに、高校の学業は、当然おろそかになる。母はたびたび、職員室に呼び出された。それでも終生、私の音楽活動を陰から見守ってくれたのが母だった。

そうこうするうちに、先輩から「ベースが辞めたので、江藤くん、今日からベース担当」と宣告された。「えっ!弾けませんよ!!」と訴えると、ギターは弦が6本、ベースは2本少ない4本。チューニングは、E/A/D/G。「はい、コレ!」と渡されたのが、忘れもしない、グヤトーンのエレキベースだった。ついに、電気楽器を弾ける、そのうれしさは、天を突き抜けて、宇宙に飛び出しそうなほどだった。

ベーシスト人生のスタートとなった楽器、グヤトーン(東京サウンド)は、日本の老舗エレキ楽器メーカーだが、残念ながら、昨年で会社がなくなったと聞いた。バンドブームでメーカーが誕生し、ブームが去ると、消えていく。いまに始まったことではないが、半世紀以上続いた老舗の退場には、やはり、寂しさがある。ミュージシャンにとって、楽器は大切な伴侶。その楽器をつくるメーカーや職人もまた、音楽の大切な仲間だ。

 

江藤勲の音楽夜話/第六夜

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

ベーシスト江藤勲が語る音楽のあれこれ

セッション・ミュージシャンとしてのスタート

前夜で語ったように、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが、一躍、スターダムにのぼりつめる前に、私はブルコメを離れていた。彼等が大活躍する様子をテレビで横目にしながら、私は自分の境遇が面白くなかった。まだ、セッション・ミュージシャンとしての仕事もそれほどにはなく、部屋で悶々と過ごす日が多かったからだ。そうした私を見かねて、「時間が余っているなら、運転免許でも取ってくれば」、とヘソクリを出してくれたのが母だった。昭和40年代初頭、マイカーが日本に定着しはじめて間もないころのことだ。

このあと、私がフリーランスのセッション・ミュージシャンとして生きてこられたのは、このときの母の助言があったればこそ、である。何故かといえば、当時、レコーディングスタジオに入るには、アンプもミュージシャンの持参だったからだ。スタジオに、まともに使えるアンプが備わっていなかったのだ。私が使っていたのは、ツイード・アンプのFender BASSMAN。のちのロックサウンドに多大な影響を与えるチューブ(真空管)アンプだ。

このアンプとギターを抱えて、電車やバスを乗り降りするのは、到底不可能だった。スタジオの行き帰りには、どうしてもクルマが必要になる。私が借金をして買ったのは、「てんとう虫」の愛称で呼ばれたスバル360だった。軽自動車でありながら、大人4人の座席を備えたこのクルマは、360ccの排気量ながら、実によく走ってくれた。どこのスタジオに行くにも、「てんとう虫」が大活躍した。レコーディングが深夜に及んでも、「マイカー」さえあれば問題ない。心おきなく、演奏に打ち込むことが出来た。

セッション・ミュージシャンとしてスタートを切った当初、所属したのが「津々美洋とオールスターズワゴン」だった。「エレキバンド」と呼ばれたバンドだが、GSブームが興隆するにつれ、歌謡曲にもGS調のアレンジが多く取り入れられ、ソロ歌手がいわゆる「独りGS」をやることが多くなる。そうした際のバックとして、オールスターズワゴンは、すぐに引く手あまたになった。特に私が加わった時期から、自分たちの楽曲よりも、歌謡曲のバックをつとめることが多くなった。

68(昭和43)年には、美空ひばりさんがステップを踏みながら唄った、『むらさきの夜明け』(原信夫/作曲)のレコーディングでベースを弾いた。このときのことは、思い出深い。大スター〝お嬢〟のレコーディングとあって、コロムビアのスタジオは、ひばりさんの入り前から、ただならない雰囲気だった。音楽とは直接関わりのない大勢の人が立会い、誰もが緊張していた。

しかしひとたび、彼女が唄いはじめると、すべてが変わった。ひばりさんの声が、一瞬にして、その場から、音楽以外の余計なものを取り去った。和物をしっとり唄いあげても、ビートをきかせたこの楽曲を唄っても、彼女のリズム感は、空前絶後。まさに女王にふさわしい、見事なグルーヴだった。バックのベースマンがそう断言するのだから、これは間違いがない。

そうそう、ひばりさんといえば、なんといっても古賀政男の名曲『悲しい酒』だが、実はこの伴奏は3タイプのメンバーで、伴奏のオケを録音するといわれ、そのひとグループに私も加わっていた。でもレコード化されたのがどのテイクか、聞かないままスタジオを離れてしまったので、詳細は不明だ。日本の歌謡史を代表する楽曲になるとは、あのときは知らなかったからなあ!

江藤勲の音楽夜話/第十ニ夜

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

ベーシスト江藤勲が語る音楽のあれこれ

同じ音でも、どこで弾くかでセンスが分かれる

あるとき、スタジオ仲間から、「江藤さんの音は、同じCでも、音がどこか違うね!」と指摘されたことがある。ギターやベースは、同じ音を出すにも、いろいろなポジションの押さえ どころがある。どのフレットでどの弦を押さえるかによって、音程は同じCでも、タッチの感覚や、音のレスポンスに、それぞれ微妙な違いが生まれてくる。譜面には音符やコードの表 記はあっても、どこのポジションでその音を出せ! という指示まではされていないのが普通だから、どう音を表現していくのかは、ミュージシャンに委ねられている。その選択で、ベ ーシストのセンス、フィーリングの違いが、にじみ出てくるのだ。

Willie Weeks(ウイリー・ウィークス)は、Donny Hathaway(ダニー・ハザウェイ)のバンドでブレークしたベーシスト。名盤『Donny Hathaway /LIVE』での彼の演奏は、実に素晴らし い。リズムを刻みながら、流れるようにメロディを奏でるというベースならではの特性を、いかんなく発揮している。そのダイナミックな展開、〝ドライブ感〟は、まさに一聴に値する 。
アルバムにおさめられた、マーヴィン・ゲイの名曲「What’s Going On」 ここから聴くことが出来る。

ちなみにこのセッションのギターは、PACO1977のメンバーにはお馴染みの、Phil Upchurch(フィル・アップチャーチ)。ご覧のホームページ「PACO」のロゴの「O」の右横でディ・ア ンジェリコのギターを弾いているのが、ミスター・アップチャーチだ。現在、PACO店内には、彼の名を冠した貴重なギター(Vestax)が展示(非売品)されている。
ウイリー・ウィークスは大変な才能だが、彼が素晴らしいのは〝セッション・ベーシスト〟の域を越えることなく、常に仲間と音楽を愉しんでいることだろう。その姿は、まさに〝 粋〟である。
今夜の最後に、面白い音楽の聴き方をアドバイスしよう。「このベース気持いいな!」と思う曲と出合ったら、そのセッション・ベーシストをメモしておき、次からその人を軸に楽曲を 探してみると、意外な発見があるものだ。リーダーの名義はさまざまに違っても、不思議と自分のフィーリングに合う音楽が見つかる確立は高いだろう。

江藤勲の音楽夜話/第一夜

ベーシスト江藤勲が語る音楽のあれこれ

<語り/江藤勲 聞き書き/青山弦>

はじまりは、通学路で聴いた奇妙なサウンド

69歳になるいまも、ベースを手にしない日はない。音楽が鳴っていれば、すぐに楽器を弾きたくなる。カラダが自然に動いて、ベースやギターに手がのびる。マスターを務めさせていただいているPACO1977にも、ウッドベースを置いて、いつでも弾けるようにしている。

ベーシストとして、これまで数多くのミュージシャンとステージに立ってきた。グループサウンズから歌謡曲、ジャズ、ポップスまで、一時は毎日のようにレコーディングにも参加していた。そうした当時のことを、思い出すままに語っていこうと思う。音楽を志す人にとって参考になることが、すこしでもあれば幸いだ。

まずは、音楽との出会いから始めるのがいいだろう。

子どものころから、音楽は好きだった。記憶にのこっている最初のメロディは、ラジオドラマ『笛吹童子』のテーマ曲。♪ ヒャラリ ヒャラリコ、というメロディを心待ちに、ラジオに耳を傾けたものだった。小学校2年のとき、大田区から山間の町、奥多摩に越したころのことだ。

本格的な音楽との出会いは、高校進学後のこと。武蔵境の関東高校(現:聖徳学園高校)に通った。中央線の武蔵境駅から学校にいく途中、いつも奇妙な音がすることに気がついた。揺れるような音程の、なんとも心地良いサウンドが、風にのって聴こえてくる。授業が始まっても、その音が耳について、勉強どころではなかった。

ある朝のこと、とうとう我慢出来ずに通学路を逸れ、音に導かれるように歩いてみた。すると、着いたのは日本獣医畜産大学。キャンパスを囲む石塀に伸び上がって、窓から流れてくる音を聴いていると、もうその場を離れることが出来なくなった。それからは、毎朝、高校に向かうはずの足が、いつの間にか獣医畜産大学へ。遅刻の常習で、先生に叱られるのを覚悟で、路上に立ち、音に聴きほれていた。

通い始めて何日目だったか。いつものように塀に手をかけて聴いていると、突然、演奏が途切れた。「アレ! もう終り?」。高校に向かおうとすると声がする。見上げれば、窓から大学生が顔を出して笑っていた。「そんなに、音楽が好きなら上がって来いよ!」と呼び入れられ、目にしたのが、スチールギターを見た最初だった。

半世紀におよぶ、私の音楽人生は、その朝からスタートした。

 

江藤勲の音楽夜話/第五夜

ベーシスト江藤勲が語る音楽のあれこれ

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

ハワイアンからロカビリー、そしてGSへ

ハワイアンブームと並んで、1950年代後半になると、ロカビリーがブームとなっていく。火付け役となったのは、「日劇ウエスタンカーニバル」だ。人気絶頂の「三人男」が、ミッキー・カーチス、平尾昌晃、山下敬二郎。その人気たるや、もの凄かった。舞台も、観客も、過激なまでに音楽に情熱をぶつけ、火花を散らした。海のむこうでは、E・プレスリーのロック&ロールが、ビートルズに飛び火していくように、日本ではロカビリーがGSにつながっていった。

のちに私も、日劇ウエスタンカーニバルの舞台に立つが、当時の演奏活動の中心は、「ジャズ喫茶」だった。なかでも最も多く演奏したのは、銀座にあった「テネシー」である。当時のジャズ喫茶の主だったものには、有楽町に「不二家ミュージック・サロン」、新宿には「ACB/アシベ」、歌舞伎町には「ラ・セーヌ」などがあった。ジャズ喫茶といっても、レコードを鑑賞するのではない。ステージライブのみである。また「ジャズ」と名前にはあるが、ジャズばかりを演奏するのでもない。ハワイアンもあればウエスタン、ロカビリーなど、ジャンルにこだわらず洋楽全般のバンドが出演した。

銀座テネシーでロカビリーを演奏していたころ、私が所属していたのが「克美しげるとロックメッセンジャーズ」だった。ヴォーカル克美の人気は高く、全国各地で演奏する日々が続いた。バンドマンとしての生活が、ようやく板についてきたのがこのころだった。しかし、不幸な事件がもとで、バンドは一夜にして終わった。途方に暮れていたときに、声をかけてくれたのが、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのリーダーでドラムの吉川氏と、ボーカルでフルート、サックス担当の井上大輔(当時、忠夫)氏。ありがたく仲間に加えていただいたのは、もちろんである。

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、通称「ブルコメ」は、それまでに私が所属してきたバンドとは、一線を画していた。メンバー全員が譜面を読み、アンサンブルや音楽的な意見を出し合うこともたびたびだった。そうしたバンドの才能を買われて、人気歌手のバックで演奏することも多かった。尾藤イサオ氏の唄った『悲しき願い』(アニマルズのカバー曲)のバックも、1965年当時のブルコメである。

ブルコメは、数年後に訪れるGSブームを牽引する代表的なバンドだが、私の在籍時は、ブームの兆しも見えない時期にあたる。在籍期間は、ほぼ一年ほどだったが、受けた影響は大きかった。さまざまな歌手のバックで演奏することの面白さを知ったからである。、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが、「ブルー・シャトー」で大ヒットし、第九回日本レコード大賞に輝くのは67年。私がブルコメを離れてから、間もない時期だった。ハワイアンからロカビリーへと移ったブームは、歌謡的な要素を取り入れたエレキバンド、GSブームへとなだれこんでいった。

江藤勲の音楽夜話/第十一夜

語り/江藤勲 聞き書き/青山弦

ベーシスト江藤勲が語る音楽のあれこれ

社長というよりも、総務部長のベーシスト

1969年に、私はビクターから二枚のリーダーアルバムを出していた。

  • 『ゴールデン・エレキベース』(69年) 江藤勲とザ・ブラック・パンサーズ
  • 『エキサイティング・エレキベース』(69年) 江藤勲とピックアップ・セブン

これを聴いたポリドールのプロデューサー杉本氏から、「ウチでもベースを前面にだしたアルバムを」と申し出があった。自身もベーシストだった杉本氏の熱意に、背中を押されるように『ベース!ベース!ベース!』シリーズがスタートしたのは、70年のことだった。
杉本氏の気持はありがたかったが、私の気持は少々複雑だった。その気持をひとことで表現すれば、「自分は社長向きの性格ではないな!」という思いだった。「社長」とは、自分がセンターに立ってスポットライトを浴びる役目である。そうした思いを抱いたのには、ベースという楽器の特性も関係しているだろう。ピアノやギターならいざ知らず、ベースは、それ自身が前に出るように考えられた楽器ではない。音楽の構成を家の構造に例えれば、本柱を支える礎石の役割がベースである。

そう考えると、ベースは、私の性格に大変によく合った楽器だった。
スポットライトの後ろにひかえて、思う存分に社長に個性を発揮してもらう〝サイド・マン〟という役が、自分のベスト・ポジションだと悟った。しかも特定バンドの〝サイド・マン〟ではなく、セッション・ミュージシャンの私の場合は、社長が日替わりである。連日、さまざまな個性の社長に仕えなければいけない。会社で例えれば、さしずめ〝総務部長〟だろうか……遅まきながらリーダーアルバムを手がけて、はじめてこうした自分の性格を知った。
リーダーアルバムのレコーディングに際しては、ベースを前に出しても、全体のバランスが崩れないように、相当に特殊なアレンジをしないといけなかった。そこで編曲には、大御所、前田憲男氏や、鈴木邦彦氏、川口真氏などの助けを借りて、なんとかレコーディングに漕ぎつけた。
『ベース!ベース!ベース!』シリーズは、「江藤勲とケニー・ウッド楽団」名義で、洋楽、邦楽のインストを全部で6枚リリースした。またポニー(現ポニーキャニオン)からも『SOUND SPECIAL ’70 ベースでGO!GO 』という同系統の作 品をリリースした。
スタジオ仲間の石川晶/d、杉本喜代志/g、飯吉馨/p、水谷公生/g、猪俣猛/d、石松元/d、大原繁仁/key、栗林稔/keyなど、腕ききの面々が毎回集って、私を前に出してくれたが、総務部長の私は、最後までどこか居心地が悪かった。懸命に盛り立ててくれた、みなさん、ゴメン!